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ReL2007年の小説2話

2007年12月に書いたReLの小説です。
2話目 1話はこちら 
没案なので、今では変更してしまっている設定もあります。

この話ではルカやサレンアーデ、シリンが出てきます。今と設定が結構違うので、雰囲気やキャラクターがちょっと違う感じがします。面白いですね。
世界設定も曖昧な事が多くて、異種族の設定をきちんとしてなかったので、今の設定にない名前があったりしますね。
ほかにも設定が違うキャラクターなど……。(あまりにも名前が違うのは直しました)
あとなんか中二な名称があったりしますけど、今はない設定だなとかありますね。

読直したら、スズモリレイカがただの嫌世感の強いスレた女子、というわけではなかったということの鱗片が見えました。
それもなんか面白いと思いました。



よかったらこの先へどうぞ。




#2 彼は空から出でてあの薔薇より青し 

 

 こそさらに珍しい風は、止むことを覚えず、激しさを増し、食事中の私の席の後ろで、早くしろと窓を叩いて急かしている。

 急かされる覚えはないが、その音があまりにも耳ざわりだったので、いつもより早めに切り上げて席を立つ。

 さっさと盆を片づけて自室へ帰ろうと思うのと同時に、隣に座っていた爺さんに声をかけられる。

「雨でも降るのかなあ?」

 と何が嬉しいのか、妙に行儀の悪い笑顔を見せて私に訪ねてくるので、

「さあ、どうでしょう?」

 とやり過ごそうとしたら、向かい側の清楚な婆さんが、その年にしては珍しい豊かな白い髪を、うっとおしそうに後ろに流して、

「そんなことになったら、あんたは楽しいでしょうけれど、私としてはね、髪の毛が湿気るのだけは勘弁なのよ。あなただって同じ気持ちよね?」

 なんて返されてしまったので、私は発とうにも発てず、座るにも居心地が悪く、そのまま中途半端に中腰のまま、自分でも形の悪いと思う作り笑いを顔に張り付け、彼らの掛け合いの間をなんとか見極めようとしていたところ、

「ねえ、よかったらこれも持って行ってよ」

 と、聞き慣れない、幼げな声が聞こえたので思わず振り返る。するとそこには、

 人形がいた――――。

 多分その瞬間に私の時間は少しだけ止まったのかもしれない。気がつくと不思議そうに首をかしげる人形が一つ。私に空になったティーカップを差し出している。

 私の周りでは、会話の続きが私抜きで進められて、私はなぜかそこから遠く、動きだした時間はまだ停滞を保とうとしているかのように思えた。

 しかしそのままではいられないので、気を取り直して人形からカップを受け取り、平静を装い、その場を離れるべく踵を返す。

「ありがとう」

 という声が返り、私の動きはまた止まる。けれど、それもなかった振りをして、食堂の入口にある金網の棚の中に盆をおさめた。

 驚いた。あんなところで会うとは思わなかった。

 そもそも、同じ場所で食事をしていただなんて。

 あれは、そう、噂通の限りで言うお人形。正式名は被検体番号二十八。通称ルカ。

 いくつか噂を耳にしていたものの、実物を見たのは恥ずかしいながら初めて。だからこそ、その容貌に戸惑いを覚えずにはいられなかった。

 美しいといわれる人物なら何度も見ている。それは別に特別なことではなく、たとえば雑誌を開いたときに目に入る女性。その隣を守る男性。映画の女王や、架空の騎士。厨房で皿を洗うジェリカルアネンや、いつも所在不明なこの施設の主。

 そのどれもが文句のないほど整った、そして特徴のある容姿をしている。

 それらだってみようと思えば人形に見えなくもない。

 むしろ、そのように整った人たちこそ人形と表現されてもおかしくない存在だけれど、それでも私は、あのような存在を初めて見たような気がしてならない。

 あれは、何と評価したらいいのか。

 一度見たら脳裏にこびりついて離れない。それでも時間の劣化には負けて、印象だけで構成されたぼやけた輪郭をなぞりながら、私はその存在を認識しようと志した。

 もう一度実物を拝むには、補えない欠落が私には存在している。その欠落した部品は、きっと、勇気。

 最初はその存在を覆う、一点の曇りのない淡雪のような白い肌から思い出す。その次にその印象を覆う顎の先程の長さの銀の髪。直視できなかった瞳は確か宝石のような緑色だったように思える。睫は長かっただろうか?その少女のような、性別をなくしてしまった陶器(ビスク)の標本のような、それでいて蝋のような生々しさを湛えたあの端正な造りに似合ったのは、やっぱり、その睫は長かったのだろう。

 大してふくよかではなかったが、あの紅い唇に浮かべた笑みは、人格を宿した曖昧な連続描写(ワンシーン)であったはずなのに、そこだけフィルムを抜いて焼き起こしたかのような明確さとある種の遠さを錯覚させる。

 それは多分彼が美しいからというだけではなく、それに付属する付加価値を私が知っているからに他ならないのだろう。と思い付く。

 ならば先ほどの衝撃は、私が、この地の禁域に手を触れてしまったという誤解から起きた錯覚だったのか。

 交錯する思考の中、拾い上げた像はいとも簡単に四散する。

 焼きついたはずのネガなど、降り積もる時間と思考の砂には抗えるはずもなく、抵抗も空しくその体を地中に埋めてしまった。

 そして残ったのは、まるで夢の中にいたかのような浮遊感。そして確かに見たのにそれは想像だったと言わんばかりの剥離感。

 残像は知識に切り替わり、次に現れるのは彼についての形式的な詳細。そして行きついた先に私は一つの現実を思い出す。

「あ、本」

 めまぐるしい思考の出口は私の義務に突き当たった。

 自室へと向いていた足を引き戻し、裏庭へ、図書館のある西棟へと向け直す。

 なるべくなら消灯の鐘が鳴る前にことを済ませたい。

 規則を気にしてそう思っているわけではない。

 消灯後の行動については、翌日に支障をきたさない範囲でなら言及はされない。

 干したばかりの洗濯ものはまだ乾いていないだろうから、急いで取りに戻る必要はない。

 泥まみれのあのハンカチなんて、明日の人に任せてしまえばいいだろう。

 雨など降らないし、日だって暮れきらないのだから、ひと眠りした後だろうがそうじゃなかろうが乾燥具合に差なんてない。

 そんなことではない、そんなくだらないような理由のどれ一つでもなく、慌てていた。

 急かされていた。

 誰によって?

 それはほかならぬ彼によって。

 思考の片隅に置かれることもなく、その存在について忘却していたわけでは、まさかないだろうが、それでも、そのような状態に近いほど、やはり私は忘れていた。

 課せられた課題については、根を張るがごとく沁みついたいたにもかかわらずだ。

 そう、自覚するまでもなく、私は彼が嫌いである。

 それは、焼け燻るような怒りではなく、霞み、今にも消えうせそうな忘却であり、しかし一時的に湧きあがる鋭い棘。

 思い出せばコンロにスイッチが入り、それほど時間もたたないうちに沸騰する。

 しかしまたその怒りはどこかに消えうせる。

 それは現実という扉を開けたからだ。

 しかし、まるで夢のような現実でもある。

 見慣れたはずの、午前五時、もしくは午後四時ほどの薄暗さの光景。

 裏庭への扉を開ければ広がった。

 暗い。

 たった数十分屋内にいただけで、この目はその明るさを忘却してしまうのだ。

 こんな中で平然と洗濯をしていただなんて、今では想像もつかないが、逆に、また少し経てば、屋内の明るさが異常に感じられるのだろう。

 そんな衝撃に合わないうちに、すばやく鐘突き塔にある事務所の窓口に駆け寄り、鍵をもらうと、はたから見れば可笑しいくらいの慌ただしさで階段を駆け上がり、引き戸を開け、光源を点灯させて、本を取る。

 探す間もないほど、その位置をよく覚えていた。

 ただし、その形は新品の布を知らずに被せたかのごとく、最初に手にした時の印象より新しく、本の持つ年月を実感した。

 題名を復唱している間もおしく、本を扱うにしては無礼な動作でいくつかを引き出し、抱え込むと扉を閉めるのも億劫でそのまま駆け下りた。

 覚えていられればまた閉めに来られる。

 頭の中にひとつ鋭く印をつけ、保障はないが引き出せることを信じて、そのまま彼が指定した場所に向かう。

 そこは誰も近づかない場所であり、誰もが存在していることを忘れている。否、そのような振りをしているに違いない。

 そこは裏庭の遥か先、この世界の果て。

 いくつもの黒い鉄柵が天に向かい伸び、そして途切れるように見えなくなっている。その向こう側は、深く白い霧が何層にも重なり、漆喰の壁のごとく景色を塞ぐ。思い出の中の様ににじみながら。

 彼はその鉄柵に体を預け、その様子は監獄に閉じ込められた囚人の如く。しかし囚人にしては不似合いなほど堂々としていて、その存在だけで圧迫される。

 どこの民族のものだか、彼の人格に、それは果たして丁度いいのか、不確かである砂漠の民の衣装に身を包み、しかしその違和感は、頭に巻かれた白いターバンから伸びる、金糸を束ねたような長い髪。不意に柵にかけた左手の、異常なほどの繊細さと白さ。しかし青年特有の筋の固さと肉の重みを絶妙なバランスで内包し、それが私には自然なほど不自然で気味悪く思えた。

彼は私の気配を知り、緩慢でありながら隙のない動作で振り向くと、今は安定した色を持つ、色移りの激しい紅(くれない)の瞳で私を突き刺し、目を細めて笑顔に入った。

 顔だけみれば、それは細く繊細で、中性的にも見える美しさ。しかしその瞳の鋭さ、鼻筋の鋭角さ、輪郭の細さ全てが全て、冷たく恐ろしく、何か不吉な物を予感せずにはいられないような、そう言った印象を導きだす。

 安直に回答するなら、それは性格が悪そうな美人。

 しかしその体は女に見まがうことなく、すらりと高く、そして細く、それでいてその内臓の重みを確かに感じる質量を、その線の節々に描き、鉄のような硬さと、ゴムのような弾性を内包していた。

 それは顔との印象とあいまって、余計に不吉な印象を醸し出す。

 性格どころか全てが不吉であるかのような毒々しさを、そしてそれは常人では拝むことのできない、どこか遠い異界の地を、架空の気配を、幻であるかのような浮力を従わせ、その空間を特別な物に仕立て上げる。私はその特別さとはいつまでも無縁で、それゆえに、自らのみすぼらしさを自覚して居心地が悪くなる。

「遅いね」

 彼の赤い唇が開き、重々しくもなぜかどこか軽い音がこぼれる。

「毎回それですけれど、私今回は間に合いましたよ」

 なぜ対抗しなくてはならないのか、しかしどうしてか負けてはいけない気がした。

「否、五分ほど遅刻だ。五分でも遅刻は遅刻なんだけれど。知ってる?」

 重圧でありながら、低すぎもせず、確かに男性のものであるそれは、その容貌からは不釣り合いな、それでいていっそお似合いのような軽さで私を追い詰める。

「そんな細かい事、ここじゃあ全然わからないんです」

「時計、持ってるじゃないか」

「正確かなんて調べようもないんですけれど」

「ごめんね。困らせてるみたいだけれど、俺、あんまり待てない方でさ。今度は頑張ってくれないかな? 五分後に来られたんのなら、五分前も出来るだろう?」

 どんな細かく浅ましいことでも、この男の前ではくじけてはいけない。そうでなければ、私の平穏は守られない。

「急ぎなのはわかりますが、こちらの事情も考えてください。わたくしは貴方のように万能ではないんです」

「そんな光栄なことを言わないでくれよ。照れるじゃないか」

「馬鹿にしてますね?」

「え?馬鹿じゃないの?冗談だよ。これからは気を付けてよ本当に」

「ふざけないでください。それこそ時間が無駄です。それとも必要ないですか?これは」

 そう言って、頼るにはあまりにも当然過ぎるそれに頼り、私は自ら凡庸という地雷を踏む。

 結局勝てない。

「重そうだね、俺が頼んだそれは。下に置いてもいいんじゃないかな?」

 私はその言葉に少しひるみ、思わず後ずさりする。

 そうせねば話は進まないと知っていながら、そうなることを拒む。従えば手のひらで回る駒。

「どうしたの?まぁ、辛くなったら置けばいいよ。どっちにしろ、持ってきたのに持って帰るのは嫌だろう?重いしさ。二度手間だよね」

 しばらく沈黙。のち、感情に任せて乱暴に相手に押し付ける。柵の間から少しずつ。

 わずかながらでも抵抗と言わんばかりに脇腹めがけて押し出すが、相手は上手に受け止める。

 悔しいったらない。

「下に置いてもよかったのに。優しいなあ」

 その言葉には、明らかに持ち上がる含みがある。

「次はなんですか?」

 忌々しい。さっさと用件を聞いて、一刻も早く彼を忘れたい。

「あれ?君は気にならないの?この中見」

「中身……?」

「あっれー?全然気に留めなかった?鈴森(スズモリ)麗花(レイカ)ちゃん?」

 名前を呼ばれて鳥肌が立つ。腹も立つが、彼が向けた本の背表紙を確認して思考が止まる。

「君には関係なかったかなあ?」

 最初は確認したはずの題名。しかしその意味を、この頭はきちんと唱えていなかった。否、忘れていた。

 “生に至る病と月影の生命の記録”

 それが何を意味しているのかは、一目瞭然。少なくとも、目の前の彼と、私にとっては、意味深である

 成句(フレーズ)そしてもう一度本来の自分の目的を確認するための呪文。

 しかしその成句(フレーズ)ばかりが目に入り、その書物という大いなる手がかりの存在に、気が付けていなかった。

 私は、見落としていたその重大さに息が詰まり、つばを飲み込む。

 無言の、間。

「君、ルカを見たことある?」

 私のことなど気にも留めないかのように彼は本を開く。いつの間にか手持ちの一冊以外は足元に置かれている。

「ルカ……。あ、今日……見た。」

「見た。それは幸運だね。あれは籠の鳥だから、そうそう簡単には見せてもらえないんだよ」

「なんですか、それ」

「そのまんまだけれどさ。君、あれについてあんまりよく知らないだろう?」

「知ってますよ。被検体番号二十八。通称ルカ。正式名称、月影の生命、識別形式名称、光。計画責任者及び実行者であるシリン・センクラッド氏の作りだした、氏と同じく永遠の生命を有する、初の人工生命体。形状モデルは17世紀末、ラウゼーズ大陸の中央に存在した巨大国家ルプチェリスの主要民族であったシーエズ族の少年の十四歳時のものをを参考としたものである。」

「それだけ?」

「まだありますよ。製作には多くの時間と犠牲があって、二十七回全て失敗していること。二十九回以降の製作も成功していないこと、人工生命体の正しい精神の成長を促すために、研究員の個人的な接触は禁じられてること、それから――――。」

「もういいよ。」

「まだ知ってますよ。」

「ムキにならなくていい。あれだろ?要するに君が知っているのはそういう知識なんだろ?あれが本質的に何なのかなんてさっぱりなんじゃあないか」

「なんですかそれ」

「じゃあさ、なんで識別形式名称が光なのか、どうして形状モデルがシーエズ族の十四歳の少年なのか、二十八回全部おんなじもの作ってる理由は何なのか、君わかる?」

「・・・・・・センクラッド氏が変態だから?」

「君それ今思いついたね?そうだね? 確かに彼は変態だね。でもそれだけで全ては片付かないよ。だってあの人まともだろう?狂ってはいないよね。こんな研究してる割には」

「さぁ?あんまり詳しくは存じませんが。マッドサイエンティストというのがどのようなものなのか、実物を知らないので断定しかねます」

「嘘つくなよ鈴森麗花。君に麗花なんて名前つけて祀りあげちゃったのはどこの誰?」

「・・・・・・。」

「とりあえずね、君はもう少しここのこと良く知ったほうがいいよ。嫌だと思うけれど、君が思う以上に人と接触しないとだめだね。特に君の大嫌いなセンクラッド氏とは。」

「嫌いだなんて言いましたっけ?」

「嫌いじゃないの?俺のことだって嫌いだろう?」

「・・・・・・。」

「とりあえずこれさ、明後日くらいには読み終えるから、取りにおいで。君には読む権利と義務がある。」

「もうなんかそれ絶対読めってことですよね。」

「そうだね。絶対読め。それじゃあどうしようか。おんなじ時間で明後日でいいか。48時間後にここで」

「……わかりました48時間後にここに必ず」

「あ、ついでに続きも持ってきてくれたらいいね」

「・・・ではそうします。」

「よろしくね。それと、時間は守るように」

 うるさい!しつこい!

 そんな言葉を返してやれるはずもなく、彼から背を向けて、別れの挨拶もなしにその場を立ち去る。

 彼の気配を感じなくなるまで、彼に見つめられているような、監視されているような気がして落ち着かなかった。

 それに、今日は二度も姓名(なまえ)を呼ばれてしまった。

 しばらく忘れる事が出来ないかもしれない。

 まったくもって屈辱である。忌々しい。

 自分だって、サラ、だなんて、女みたいな名前の癖に。

 それなのに、私は彼の名前くらいしか知らないのに、彼は私の何を知っているというのだろう。あの含み。

 私は、あとどれくらい彼に事を知られてしまっているのだろう。

 鐘突き塔の前に差し掛かり、消灯の予鈴を直に聞いてしまう。頭が割られるような音の衝撃と共に疲労が押し寄せる。

 図書館の戸を閉めなくてはいけない。

 しかし、もう忘れたことにしてもいいだろうか?

 責務に駆り立てられながらも、しかし体は向かわず、自室の扉を開けてしまい。そこで諦めがつく。

 誰も入らないはずだ。あんな場所に用なんてないはずだ。少しくらいこんな甘えも許されてもいいだろう。

 朝。朝一番に来て閉めればいい。

 ベッドに眼鏡をたたき落して、私はそのまま倒れこんだ。

 

 黄色い鳥が鳴いている。

 太鼓が打ち鳴らされている。

 パレード?

 なんの?

 しかしとてつもなく耳ざわりである。

 騒がしいのなんて嫌いだ。

 私を囲むのもやめろ。

 こんな嘘のどこがうらやましい?

 全て虚像。

 空しくなるばかり。

 みんな何も知らない癖に。

「レイカー。レイカ?居るでしょう?ねーえー?」

 ジェリカルアネンだ。

 まどろみをさまよう私の意識は、その声の主の正体を掴めた時に、ようやく覚醒という出口に辿り着く。

 どん、どん、と扉が音を立てて震える。

 嫌な夢を見たような、記憶の淵に何かが顔をのぞかせる。

 しかし、そこでその顔とお見合いしている暇はない。

 手探りで眼鏡を拾い、顔に当てる。気だるさでもつれる手足を無理やり動かして、扉に手をかけ、錠を捻り、押し開ける。

「おはよう!」

 うんざりするような笑顔を見せられる。

「・・・・・・おはよう。」

 乾いて、粘膜の張り付いてしまった喉からの第一声は、蛙の鳴き声みたいな音が出た。

「良かった!起きられたみたいで!」

「嬉しそうね」

「だあって、いつもはレイカの方が早いんだもん!今日は私の勝ち!」

 指でニを作って誇らしげなジェリカルアネンに、私は更に気分が悪くなる。

 それはおめでたいことですね。どうも。

「わざわざ起こしに来なくたっていいのに。それとも私、寝坊した?」

「ううん。まだ予鈴前だよ。あのね、主任が探してたの。昨日」

「昨日?」

「消灯後だったから、今日にしようと思って」

「何の用?」

「西棟の図書館の鍵について。だってさ」

「ああ。そうか。見回りなんてしてたのか」

「レイカもドジ踏むんだね!」

「・・・・・・そーね」

 居心地悪く視線を泳がせ、昨日の姿のままの自分を見る。身を翻して扉を閉める。

「待ってるからね!一緒に行こう!」なんてジェリカルアネンの声が聞こえる。

 そんなにべったりして何が楽しいんだろう。

 "君が思う以上に人と接触しないとだめだね"なんてサラの言った言葉がよぎり、これも我慢しなくてはいけないことなのだろうか。なんて思ってみたり。

  ああ、嫌だ嫌だ。やっぱり忘れてないじゃない。

 起床の予鈴と共に服と気持ちも切り替えて、金魚の糞の様についてくるジェリカルアネンと共に、本館の中の事務室に向かう。

 そこには、いつもの通り、一番乗りで主任がいた。

「あ、おはよう」

 体の大きさには不釣り合いな大きな声。高すぎもせず、低すぎもせず、まろやかに届く。

 彼よりも背が高い私は、目の前に立つと丁度形良く整えられた白いバーコードを見下ろすことになる。

 この執着に感心せずにはいられない。

「おはようございます、レステーシュ主任」

「うん。おはようスズモリ。ヴァザウィーナもおはよう。」

 ジェリカルアネンが慌てて頭を下げる。

「さっそくなんだけどねスズモリ。塔の事務所の方がね、君が鍵を持ったまま戻って来なかったっていうもんだからね、図書館に行ったんだよ。そうしたら戸が開きっぱなしじゃないか。どうしたんだい?めずらしい」

 大きく、ふっくらとした顔の眉間に皺が寄る。不謹慎にも、ブルドックのようだと思いつつも、そこから発せられた言葉に少しだけ動揺する。

「申し訳ありません。それは、あの、どうしても気になる書物があって、思いついたまま取りに行ったのはいいんですけれど、具合が悪くなってしまって、本を運んだあと、眠ってしまったんです」

 思ったより簡単に言葉が出た。

 これに繋がるような嘘を少し前についた。横にいるジェリカルアネンに対して。

 そのジェリカルアネンは今、落ち着いた様子でやり取りを伺っている。

 私の嘘はいつも、誰にもばれない。

「そうかい。それは大変だ。ここのところ忙しかったかな?体には気をつけないといけないね」

「はい、もうしわけありません」

 マニュアルをたどったかのような謝罪光景。これで話は丸くおさまったかのように思えた。

「それでだね。結構いっぱい持っていったみたいだね、あの関係のものを」

 棚を、見に行ったのか。物好きな男だ。

「あ、はい。」

「そんなに興味があったなんて、びっくりしてしまったよ。君は母方に似て熱心なんだね」

 そう、母をご存知で。本当に物好きな方だ。

「主任。失礼ですが、その発言は規律違反です」

 ――――正当の理由なく、他者に無闇に己の素性を語る者。

 聞くところによると、詮索したものも同罪となるらしい。

「ああ、申し訳ない。まぁ、どうだい、そっちの方にも興味があるなら、少し関わってみないかい?いや、無理にとは言わないよ。ただ、申し訳ないが私の早とちりでね、もう上の方に話を流してしまったものでね、事は早い方がいいと思ってね。いや、本当に悪いね。でも、ちょっとだけでも会って話をしてもらえないかな?」

 昨日の今日で?物好きの極みじゃないか。

「・・・唐突なお話で、どう判断したらよいものか判りかねます」

「いやー、そうだね。ごもっとも。まぁとりあえず仕事の後にでも、センクラッド先生の元に行ってもらえないかな?」

 しかしこの口実は最悪に有難い。

「・・・わかりました。主任の申しつけですし、そこに何かお考えがあるのでしょう。その通りにいたします」

「うん、ありがとう。後は君が考えた答えをくれればいい」

「はい。わかりました。」

「図書館のことだがね、予備の鍵で閉めておいたから、君が持っている方を返してくれればいいよ」

 鍵が、彼の小さくてふくよかな手のひらに収まる。丁度よく起床の鐘が鳴る。

 会話が途切れた合図。彼は珈琲を手に窓辺の椅子に腰かける。

 ほんの少しで済む、何の意味もない会話のはずだったのに。人知れず溜息がこぼれる。知らずに入っていた体の力が、ようやく抜けた。

 すると、ずうっと黙っていたジェリカルアネンが、私の顔を覗き込み、含みのある笑顔を向ける。

 その意味を察することが出来ないまま、ただ茫然と、ああ、この子はこんな表情(こと)ができるのか。と妙に素直に感心してしまった。

 

 実感としてとても遠く。そこに何の感慨もなく。ただただ時間だけがそこに近づいている。

 なんだか都合がいいような気がしてならないが。

 こういった偶然もあるのだろう。

 今日の仕事もまた洗濯が割り当てられ、見覚えのある砂の塊を見つけ、やはりこれは自分で片づけなければならないのか。と憂鬱になりながらも、泥を落とすが、時間がたってしまったせいだろうか、こげ茶色の染みが青を曇らし、まるで嵐の前の空の様で。そう言えば、昨日の風はいつの間にか収まってしまっていたな、と思いならが、シミ抜きのための洗剤を手を伸ばす。

 時計の入っている方のポケットに目が行き、ふと気になったので、エプロンで手を拭いてから取り出し、時間を確認する。

 もうそろそろ昼食に入ってもいいはずでは?

 今だ鳴らない鐘の音。しかし、時計が正しい保証もないので、鐘の音を信じて、再び洗剤に手を伸ばす。

「ねぇ、お仕事中悪いけど。レイカちゃん」

 頭上後方から初老の女性の声が降る。

「セキナガ先輩?」

 振り向くとそこには、髪の毛をほとんどキャップの中に納めてしまった色白のセキナガ先輩が、ややかが身気味でこちらを伺っている。

「うん。レイカちゃん。なんだか、今日はお昼の鐘が鳴らないみたいなのよ」

「そうなんですか?」

 やりかけてた作業を中断し、改めて話を聞く態勢に、背を伸ばし先輩に向きなおる。セキナガ先輩は、当たり前のごとく、私より背が低い。屈み気味の背中が、元に戻らないためでもある。

 それにしても、鐘が鳴らないとは珍しい。

「そうなの。鐘突きのクゼさんがね、階段昇る途中で転んじゃって。足折っちゃったみたいなの」

「クゼさん。あの細い方ですよね?」

「そうそう、彼ももう齢だからね。気を付けてねっていつも言ってたんだけれどね。やっぱりあの階段は、お年寄りにはきついわね」

「そうでしょうね。五階分くらいは軽くあるでしょうし」

「最近はね、ゆっくり登ってたみたいよ。それで、少しずつ時間がずれちゃってたみたいね。でもやっぱり駄目だったのね。さっき結構騒ぎになってて。本鈴のタイミングを逃しちゃったのよ。今鳴らすと時間ずれちゃうでしょう?」

 聞くところによると、その騒動に一番早く駆けつけたのは、どういうことかジェリカルアネンだったそうで。

 ジェリカルアネンは素早く周りに助けを呼ぶと、その知らせは風のように瞬く間に広がり、野次馬が集まり道が逆に塞がれてしまったのだという。

 ジェリカルアネンはしきりに鐘のことを気にし、自から鳴らしに行こうとした所、どこから現れたのかセンクラッド苑長が現れ、鐘を鳴らすのを止めたのだという。

 その後彼が場を制し、口頭で昼を伝えるようにと言い使ったそうだ。

「だからね、もうお昼に行っちゃっていいわよ」と言った後で、「でもちょっと面白かったわ」なんて言い残して、ゆったりとした足つきで隣の部屋に入って行った。

 なぜだかとても違和感を感じる。センクラッド氏が話題に出るからだろうか?

 いつもは幽霊のように話題にも出ない癖に。

 考えながら食堂に向かう。廊下の交差した突き当りで、駆け回るジェリカルアネンの姿が見え、先ほどの話への実感が湧く。

 ジェリカルアネンは、通り過ぎる一人一人に声をかけているようだ。

 そうして、声をかけられた人は皆同じ方向を向く。

 一様に食堂に向かう光景が可笑しく、同時に少し気味悪く思えたので、彼らに追い付かないように足早に食堂に入る。

 すると何故か、反対側の扉の近くで、こちらに向かって手を大きく振っている人物が見える。

 そんなことをやるのは決まってジェリカルアネンだったので、否、自分たちが親しいだなんて、そんな事思いたくもないが、そのような親しげな誰かと誰かがいるのだろうと思って振り返る。しかし、その手に答える者はない。

 もう一度、手を振る人物を、眼鏡を深くかけ直してよく見つめると、その頭は灰色で、その手は褐色。動きには張りがあり、どう見てもお年を召した者のようには見えなかった。

 ああ、あれは、噂のセンクラッド氏ではないか。

 周りを見渡すが、やはり答える者はだれもおらず。

 だとしたら、もしや呼ばれているのは、この私?

 まさか。なんで。

 むしろ、こんな人の多い所で。

 真実を確認するため、否むしろ、少しでも文句をくれてやるため、私は彼に近づく。

 太陽のように万遍(まんべん)の笑顔を向けられる。

 このような笑顔にはいい気がしない。嘲られてるみたいだ。

 

 しかし、私はなぜか客間にいた。応接室というのかもしれない。

 まさか自室ではないだろうし、だとするならば、苑長室?そう呼べばいいのだろうか。

 大きな四角いテーブルを中央に、両脇に黒いソファ。その他の作りは私の部屋と似たような雰囲気。地味なのか、派手なのか。ただそこには、見慣れない帽子立てがあったり、背の高い幅広の本棚が壁を塞いでいたり。そして窓を背にもうひとつ、重厚な年月を匂わす、申し訳程度の大きさの、机と椅子。

 そしてどうしてか、そんな場所のソファに座り、目の前には本日の昼食、同じような配色の、やはり昼食がその後ろに、そして私と向き合うような形で、彼がいる。

 どうしてこの、何の関係もないようなシリン・センクラッドと、このようにして個室で昼食をとる羽目になったのか、実のところ当事者である私が理解できていない。

 笑顔を向けられて、一言二言、ずらりと並ぶその他多言。

 良いように言いくるめられてここに来た。

 それで、間違っていなければ、そうだ。

「ランチはこれで大丈夫かい?君の言うとおり、勝手に選ばせて頂いたんだけれど」

「はい。大丈夫です。」

「ああ、良かった。若い子の好みなんて、正直良くわからなくてね」

 嘘をつけ。あなたが造ったのは、その若い子ではないのか?

「それで、どういうことでしょうか?」

「はは、君のところの主任に、話は聞いているんじゃないかい?」

 凝縮した青空を詰めた、ガラス細工のような瞳が弧を描く。沢山の弧を重ねた、灰色の髪が揺れる。頬が持ち上がると浮かぶ、くっきりとした顔立ちに沿う、褐色のコントラスト。それを反射するように、光を集める白衣。

 私には、こんな眩しいものすら禍々しく映る。

 思わず顰めそうになる眉を無理やり伸ばし、平常心。

「はい。伺っております。仕事の後にでも、あなたの元へ行け、と、そう仰せ使いました」

「うん。急なことだったね。君の不安も、よくわかるよ」

「いいえ、不安だなんて、ただ、何をお考えで、何を私にさせたいのか、予想がつかないのでお伺いしたまでです」

「あーうん。その事なんだがね。君、鈴森博士の娘さんだよね?」

「ああ、はい。やはりご存知でしたか」

「学会では有名だよ。鈴森女史とその娘の、麗花の事は」

 顰めそうになる眉を伸ばし、平常心。

「ご期待に添えなくて、誠に残念ですが、私は何もできません」

 逃げるように、プレートに乗る黄色い物体を、スプーンで突き刺す。アザラシのような形のそれから、赤い粒があふれだす。血ではないので流れたりはしない。

「大丈夫だよ。心配しなくても、一連の事についてはちゃんと知ってる」

「私、研究は手伝えませんよ。天才じゃありませんから。麗花なんて名前。字面だけ綺麗な、張りぼてなんです」

 黄色い皮と共に赤い内臓を口に入れる。何の変哲もない味である。お子様向け。良く言えば懐かしい。懐古ブームなのか?最近この手のものが増えだした。

「麗花ってそれ、いい名前だよね」

 顰めそうになる眉を伸ばし、平常心。

「そう言ってくださる方は、沢山いました。以前はですけれど」

 今では、名前だけ豪華ね。とか意外ね?とか名前負けしてるね。とかそんなのばかり。あ、でも大抵は、黙る。

「麗しい花。研究に因んで付けられたんだよね?素敵じゃないか。始めたのは、君の生みのお母さん?」

「ご承知のはずです」

「ああ、すまない。あんな事になってしまったんだものね。話題に出すのはまずかった」

 肩を落とす姿を上目遣いで覗く。少しだけ気持ちが持ち上がったような気がする。

「いいえ、どうかお気になさらずに。あの時もこの時も、噂ばかりが流れて、結局真相を確かめる術がありませんものね。当事者からの情報が、一番確実でしょう」

「ああ、うん。有難う。そうなんだ。単刀直入に言うと、まずは、その事が聞きたくてね」

「ちゃんと知ってると、先ほどは仰いましたが」

「いいや、ご免。知っているというのは、形式的な情報だけなんだ」

 私の、ルカに対する知識みたいに?

「いえ、そんなものでしょう。当事者ではないのですから」

「有難う。」

 深々と首を垂れる。灰色の弧の層の中心が見える。灰色の宇宙。星だらけの。

 こんなに明るかったら何も見えないだろうな。なんて思いながら、再びプレートの上のトドにスプーンを突き刺す。

 アザラシでもトドでも、中身出たら終わりよね。

 正直言って、あのことを思い出すのは辛い。

 私がここに来た理由に、まっすぐに突き当たるからでもあるが、何より、それが私の人生の舵を狂わせた魔所なのだ。

 狂うも何も、生まれた時からそこでは、それに従うしかない。まな板の上のマグロ。皿の上のトド。後者は今、自分が代わりに舵を取る。

「糧だったんですよ。二人の」

 

 

 

 

 

「これで大体です。」

 彼はうつむいたまま黙ってしまった。

 優しいとは聞いていたが、本当にそうなのだろう。学会のしたことを、まるで自分がしたことのように思うのだ。苦しいだろう。そんな偽善。

「瑠璃花(るりか)さん。覚えありません?あの人。人間じゃないんですよ」

 人間じゃないんですよ。のところで反応を見せる。少しだけ体が震え。ようやく顔を上げる。

「人間じゃないとは?そんなに美しいんでしたら、翔族(しょうぞく)か何かの方なのでしょうか?」

「いいえ、貴方も察しがついていると思います。あの人。貴方と同じです。ただ、貴方と違って、目が赤なんです。しかも、七色の赤。光の加減で色が変わる。あの人の象徴の薔薇。そこからでしょうね」

 間。彼はまたうつむき。少しだけ震えた後、溜息をつく。体の力が抜けた。

「ああ、そうか、それで・・・・・・」

 彼は何かを思い出したようだ。手のひらを顔に当て上を向く。

 そして私も思い出した。七色の赤。言葉に出すまで忘れていた。彼、サラはそのような色の瞳をしていた。

 そしてもう一つ、思い出す。

「あの人、血が好きでしたよ。飲むとかじゃないんですけれど。採血して眺めたり。なんか特別な何かがあるみたいで、私も、私はよく採られました。雅雛(マサヒナ)の代わりでしょうね。小瓶に入れて首から下げたりしてましたよ。糧、だったのかもしれませんね。それが」

「・・・糧、か」

 彼はまだ顔に手をあてたまま。何かを確認するように、呟く。

「実際そう言われましたし。消えちゃう直前に。「これは私のお守りなの。ずっと生きる糧にしておく」とかそんな感じで。浮世離れしてました。本当に」

 彼は黙っている。私は気にせず続ける。自分がサラになったみたいだ。なんて訳のわからないことを思う。なぜか嫌な気がしない。

「これで全部です。あの一連について。私の人生ですね」

 本当は全部じゃない。まだ肝心なところが残っている。でも言わない。

 中身が出たら、終わりですから。

 プレートには、ケチャップでできた死体現場が出来上がっていた。

 死体は残っていない。あのトドだかアザラシだかは、もう私の胃袋の熱で焼却埋葬だ。

 彼のプレートには、似たような生き物が一匹。少し乾いて、でもまだ生きていた。つやつやと、傷一つなく。

 それに彼がスプーンで傷を付ける。ゆっくり。丁寧に。解剖されていく。

 綺麗に、崩れず中身が見える。彼の生き物の中身は茶色い。彼の肌の色と同じ。否、それよりは薄い。

 咀嚼のち。口が開く。

「有難う」

 と一言。

 お互いに無言のまま。彼はプレートの上の生き物の解剖を着々と進める。

 全て胃袋の中。

 死体現場はできなかった。そこには白い。陶器の氷湖(ひょうこ)。歪んだ世界を映して光る。

 唐突に、彼が口を開く。

「スズモリ君。明後日から、ルカの世話役になってくれないか?」

「・・・・・・は?」

 唐突すぎて、場違いな声が出る。あわてて口を塞ぐ。彼の瞳がまた弧を描く。

「うん。これが本当の本題なんだ。」

 言葉を失う。理解が追い付かない。

「実はね、明日、ここを発つ人が十六人もいてね。シャン君もきっと明日発つだろうから、そうしたら十七人だなあ。うん。まあね、その中に、今までルカの面倒を見ていた人もいてね。すごく良い方だったんだけれど、もう持たないみたいでね。」

「シャン。・・・クゼ・シャン?」

「そう。今日階段から落ちた人。それはいいんだ。気にしないで、関係ないよ。それでね。昨日の夜、後任について悩んじゃって。老人はさ、若い人には勝てないんだよ。体がね。特に。昨日それで上手く逃げられてさ。聞いたらずっと食堂にいたとか言うんだ。ほんと、隙を見て何をするやら。僕もね、ほんとは一緒にそうやってみたいんだけれどね。立場が立場だし・・・」

「あの、すみません。それは何の事ですか?」

「ああ、すまない。脱線していたね。うん。それでね、レステーシュ君から君のことを聞いたんだよ。ルカについて知りたがっている若い子がいるって。丁度昨日、消灯後だったんだけれど。出会い頭に相談したんだ。うん。どうかな?スズモリ君。ルカのことも知ることができるし。冥土の土産になるよ」

「は、あ。冥土の土産だなんて。冗談にならないですね」

「結構本気だよ。僕は」

「そうですね。では、どうしたら良いでしょうか?」

「決めかねる?」

「はい。突然すぎて」

「でも、やれと言われたらやるんだね」

「はい。不足はありませんから」

「それじゃあ決まりだ。有難う」

 初めての時のように、万遍の笑顔で、固い握手をもらった。

 

「信じてもらってるんだよ!良かったじゃない!」

 私は前でハンカチの染みを抜いている。その後ろで、仕事が終わったジェリカルアネン。

「まぁ、そうなのかもしれないけれど」

 でも何でそんなにうれしそうなのか、髪の毛がに三本浮き上がりそうなほど元気である。

「ねぇ、そこでにやにや笑っている暇があったら、私の方も手伝ってくれない?」

「やることあるの?」

 しかし、私の仕事は後このハンカチだけだった。

「じゃあ見守ってるよ!」

 嬉しそうである。

「何でそんなにうれしそうなの?」

「二つあるよー」

 と朝の様に指で二を作る。

「あのね、私。明日から鐘突きのお仕事するんだ!こういう仕事は若い人がやったほうがいいだろうってシャンさんから直々に頼まれたの!」

「ふーん。良かったじゃない。それでもう一つは?」

「えー。もっと喜んでよー。特別なお仕事なんだよー。」

「はいはい。よしよし。良かったねー」

「ふふふ。 もう一つはね。計画が無事に遂行したことです!」

 やっと全ての染みがなくなったので、それを脱水機の中に放り込む。

「計画?何してたの」

「うん!レイカの事、私から主任にお願いしたんだよ!」

「は?」

 脱水気ががたがたと回りだす。

 今日は理解の追い付かないこと続きだ。

「センクラッド館長のこと!ルカのこと!うまく進んだじゃない!」

「あ、へ、え?何で貴女が?」

「え、だって、レイカってセンクラッド館長のこと好きなんじゃあないの?」

「え、何でそうなるの?」

「えー。違うの?だって館長を見るときのレイカの目って、なんか違うんだもの!態度もちょっとそわそわするし、それって恋してるってことじゃない!」

 何かを一人で勝手に決め付け、鳥のような声を上げて騒ぐ。全く持ってうっとおしい。

 まぁ、これで今まで感じていた違和感が何なのかが、わかったことだし、余計な詮索されて下手なこと知られても困るから、しばらくは、そう言うことにしておいてもいいだろう。

 回転をやめた脱水機から、水分の抜かれた青いハンカチを取り出す。

 しわを伸ばすために広げると、その端に、今まで発見できなかったものを見つけてしまう。

 ハンカチには、シリン・センクラッド、と名前が縫い付けられていた。

 顰めそうになる眉を、今度は誰に構うことなく顰めた。

 このままでは、目的をやるとげるまでの人生に、うんざりして終えてしまいそうだ。

                                続く(ファイルは3話の途中まであったので、載せるかもしれないです)